ありのままの自分を受け入れるために

完璧な善人なんて、ウソ臭い

今、進撃の巨人というマンガ&アニメがヒットしています。
ダークファンタジーに分類され、かなりグロくてえげつなくて救いがあったりなかったりする話です。

この漫画が今流行する意味が、よくわかります。
「これ、今の若い子(もしくは感性の若々しい人)が見たら、すごく引き込まれるだろうな」と。
なぜならそこにはリアルな人間、言い換えると「ありのままの自分」がいるから。

舞台設定はファンタジーそのものなんですが、時代の空気(閉塞感など)が今の日本と実に巧妙にリンクしているのです。
「大人(権威者)の汚さ、ずるさ、嘘」も描いてある。
子供がイノセントに持つ疑問(大体正しい疑問)を、大人が馬鹿にして笑い飛ばすシーンは秀逸です。

そして、大人の弱さもちゃんと描いてある。
第一話で、主人公の母親が自分を犠牲にしてでも子どもを逃がそうとするシーンがあります。(動画20:00~参照)

この母親は、自分の命を捨ててでも子どもを守ろうとしました。
でも、去っていく子どもの後姿を見ながら、思わず心の底から声が漏れてしまいます。

「いかないで」

これは実に鋭い描写です。
世の中の大人の多くが、この母親の心情に共感するでしょう。

自分がどうなってもいいから子どもを助けたい。それは間違いなく本心でしょう。
だけど、本当は自分だって助かりたい。生きたい。見捨てられたくない。一緒に生きたい。
そんな気持ちを非難する人がいるとしたら、相当ご立派な生き方をしている完璧で素晴らしい人なのでしょうね。

大人の弱さ、リアルがちゃんと描写されているのです。
これは実にすごいことです。
50年前だったら、こんな親の描写は考えられなかったから。

だって、考えてもみてください。
「はだしのゲン」でも自分が犠牲になっても子どもを救った親の姿が書かれていましたけれど、そこに弱さはありましたか?
理想化された素晴らしい親の姿しかなかったでしょう。
「いつでも強くて頼れる父親」「何があっても黙って耐える母親」だなんて、現実にありもしない親の姿が描かれていたでしょう?

アリス・ミラーの名著「魂の殺人―親は子どもに何をしたか」を読めばわかりますが、ほんの50~100年前くらいまで、「大人は絶対的に正しい善人で、子どもという生き物はどうしようもない愚かな存在である。(だから、きちんと殴って教育しなくてはならない)」という価値観が当たり前でした。
「いや、そんな馬鹿な」と思う方は魂の殺人を読んでみてください。教育学者ですら「殴ることなしに子どもは善に目覚められない」と言っていた時代があったのです。

そのころ、大人は完璧な善であり、すべてを知る者であり、正義でした。
だから、「はだしのゲン」のように、多くの物語では「完璧な親」しか出てこなかったのです。もしくは、シンデレラや多くの童話のような「完全に悪な親」か。両極でした。

でも、それってリアルじゃありません。極端すぎます。
だけど、この進撃の巨人をはじめ、最近のヒットするアニメや漫画には「リアルな大人(人間)」がちゃんと描写されるようになってきています。
スピリチュアルに言うなら「光も闇も、両方を抱える生身の人間」です。

強いところもあって弱いところもある。
完全無欠のスーパーマンじゃない。
どっかカッコ悪い、正義の味方には見えないスパイダーマンのほうがウケる時代に来たのです。

ゲーム「テイルズ・オブ・ヴェスペリア」でも、明らかに正統派主人公タイプ(カロル)や正統派ヒーロータイプ(フレン)がいたのに、主人公になったのは「目的のためになら冷酷に殺人すらおかす」ユーリでした。
でも、そんなユーリに共感した人は多くいたでしょう。人気投票でも上位ですし。
「キレイゴトだけ言う善人なんてウソくさい」そう皆気づいているのです。

実はこれは、魂の成長のために大切なプロセス、「ありのままの自分を受け入れる」のに大切なプロセスなのです。

光を統合するには、闇が必要

とりあえず天使クリスタ様は私と結婚すればいいと思うよ
どうして、人のネガティブな面にフォーカスするような物語がヒットするのか?
スピリチュアルに言うなら、今私たちは「二元性を統合する」という大切なテーマに取り組んでいるからです。

二元性というのは、この世界を構成する両極のことです。
光と闇、男と女、昼と夜、陽と陰、善と悪、萌えと萎え――
この世界はすべて、両極によって作られています。その中で私たちは学んできました。

それを今、統合する、わかりやすく言うと両者のバランスを取る時期に来ているのです。

例えば今、草食系男子みたいな「男らしくない男」が増えてますよね。それに対応するかのように女性は男性化していますよね。
この流れも、スピリチュアルに見ると非常に正しいのです。
肉体の性別がどちらかにかかわらず、自分の中の男性性(男っぽさ)と女性性(女っぽさ)のバランスを取ることが大切な時代なのです。
だから従来より男は女らしくなり、女は男らしくなる。それはバランスを取るプロセスの一環です。

50~100年前の「戦争の時代」には、私たちは非常に強く闇にフォーカスしていました。
そして、その後50年は反動で非常に強く光にフォーカスしていました。
科学技術のポジティブな面が強調され、努力と根性で未来は明るくなる!といった非常に単純明快な空気が流れていました。(現実には無理ゲーであったとしてすら)
”良識ある”大人たちは「ドイツが医療先進国になったのはナチスの人体実験があったからじゃねーか」なんて、声を大にしては言わなかったのです。

「すべてが美しい」がもてはやされたのです。この世の中は完璧なる善人の世界で正義が勝つという建前が横行する時代でした。
だから完全無欠でいつも冷静で涙など見せぬ男がもてはやされたわけです。「武士は食わねど高楊枝」で、見栄を張ってカッコつけてるのが良かったんです。弱さを見せるなんてとんでもない!

もちろん、そんな時代にも弱い男や強い女を描いた物語はあったでしょう。でも、流行りませんでした。
リアルな人間より「正しい男像」「正しい女像」が求められたのです。
「男(女)たるもの、かくあるべき」でした。

だけど、もう今の時代は違う。
進撃の巨人が流行っちゃうくらい、えげつないくらいリアルな人間像が垂れ流しになっている。
男が普通に敵の前でちびっちゃいそうなくらいビビッてるし、女がおっぱいのついたイケメンにすら見える始末。

それはなぜか?
私たちがもう「ありのままの自分」で生きなくてはならない時代に来たということです。
そして、ありのままの自分を受け入れるには、「自分の闇(ネガティブさ、弱さ)」をちゃんと掘りおこして、向き合わなければならない。

光ばかりが尊いと思っている人がいます。
でも、光あるところには必ず影(闇)ができるのです。
それを無視して「私はポジティブ(光)なところだけで生きていきます!」というのは、もう通用しません。

だからといって、闇ばかりでもダメですよ。戦争はゴメンでしょ。
命を無駄に殺すのは、もうたくさんです。
ゆえに、光も闇も両方あるがまま受け入れなくてはならない。

ただ、ここ50年ほどは光ばかりが強調されてきたから、闇と向き合うことに慣れていない人が多いですね。
ネガティブな自分を直視し認めることの重要性を、ここで強調したいと思います。
闇が深い人ほど、放つ光も強烈なのですよ。逆説的に聞こえるかもしれませんが、闇を受け入れると光が目覚めるということもあるのです。

自分は汚いところがあって、冷たいところがあって、ひどい人間だ。
弱くて怖れがあって、いつも正しい行動なんて取れなくて悔やんでばかり。
でも、私はそんな自分を受けいれて、愛します。
だって、世界でたった一人の、私なのだもの。ダメな私だって、かけがえのない私なんだもの。
「いい私」「ポジティブな私」しか愛してもらえないなんて不公平。
私はポジティブなところもネガティブなところも、全てありのままの私を愛します。

今に生きる人は、この作業をせねばならぬのです。
もちろん、しなくても生きてはいけますよ。
しかしながら、あなたが真の愛に開き、自分の魂を磨きたいと願うなら必要です。

そのために、人のネガティブな側面を刺激してくれるえげつない物語は役に立つのです。
今の時代は、水戸黄門みたいな勧善懲悪の物語じゃダメなんです。

完全な善や悪などない。
どんな人間もいいところもあって悪いところもある。
自分の中で、両方受け入れてバランスを取ることこそが大切なのです。

2013年06月04日 | Posted in オタク ヒーリング | タグ: , , , , Comments Closed 

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